館長室から

#7 霜月 奈良時代の遺構・遺物について

2024年11月1日

市内胆沢地区に存在する角塚古墳は5世紀後半に築かれたとされ、日本最北端の前方後円墳として知られています。この周辺には古墳時代の豪族居館や集落遺跡も確認されていて、奥州市のみならず岩手県を代表する古墳時代の遺跡集中地域となっています。
7世紀後葉から8世紀初頭以降、つまり奈良時代の直前ころから水沢地区の跡呂井遺跡や杉の堂遺跡などで比較的規模の大きな集落が営まれるようになります。
江刺地区でも奈良時代の遺跡がいくつか確認されています。愛宕地区の三百刈田遺跡では平成19年に奥州市教育委員会による発掘調査が行われ、8世紀前半に伴う竪穴住居が検出されました。これに先立ち、同じく愛宕地区において旧江刺市教育委員会によって平成7年に後中野遺跡と愛宕梁川遺跡が、平成14年に新川Ⅲ遺跡が発掘調査されています。これらはいずれも8世紀後半に伴う遺跡で、愛宕梁川遺跡からは墓壙が2基検出され、墓壙内と周辺から土師器や須恵器などの遺物が多く出土しました。特に2号墓壙は墓壙内から8点、墓壙上面や周辺部から17点もの実測可能な土器が出土しています(写真1)。両墓壙ともに高坏(たかつき;図1)は伏せた状態が多く、坏(つき;図2)は正位置が多い特徴があり、葬送や追善など何らかの儀礼に伴ったものと考えることができます。報告書によると、両墓壙とも埋葬後に土を若干盛り上げ、その上に土器を置いたとのことです。規模は小さいながらも墓域が形成されていたものと思われます。
奥州市周辺では奈良・平安時代には、蝦夷の族長たちを葬ったと考えられる円墳を主体とする群集墳を形成され、「末期古墳」と呼ばれています。これらの群集墳に伴って土壙墓が検出されることがありますし、時期はやや遡りますが、土壙墓で形成される墓域も確認されています。これらと比較すると、愛宕梁川遺跡の墓壙は遺物の出土状況など他にはない特徴を持っているといえます。
新川Ⅲ遺跡でも長径1.8m×短径1.3mの不整形な土坑状遺構から土師器の坏や甕が7点出土しています。この遺構は保存状態が良好ではないので判然とはしませんが、遺物の出土状況からは土壙墓か祭祀的な遺構である可能性が考えられます。
また、新川Ⅲ遺跡と後中野遺跡からは古代の畑跡とされる畝間状遺構が検出されています。
江刺地区の奈良時代の遺跡は今回紹介した愛宕地区のものが主体になりますが、発掘調査により本格的な集落遺跡が見つかっているわけではないので、どんな暮らしをしていたのか詳しいことは良くわかっていないのが実状です。
ところで、これらの遺構・遺物のうち奈良時代後半のものは、征夷軍と戦った阿弖流為(あてるい)とほぼ同時代と言えそうです。江刺の愛宕地区は当時戦闘が行われた巣伏村とは位置的に近いとされているので、今回紹介した遺物も、もしかすると阿弖流為やその同志たちと何らかの関係が無かったのかなどと、考えてみたくなります。
当館では、愛宕梁川遺跡と新川Ⅲ遺跡の資料を展示していますので、是非ご覧になって下さい。

奈良時代の遺構・遺物について(写真1)遺物出土状況

奈良時代の遺構・遺物について(図1)土師器高坏

奈良時代の遺構・遺物について(図2)土師器坏

奈良時代の遺構・遺物について(写真2)展示状況

髙橋憲太郎

髙橋憲太郎(たかはしけんたろう)

1958年、水沢市(現奥州市)に生まれる。
1977年、岩手大学教育学部に入学し、岩手大学考古学研究会に入会後、岩手県教育委員会の西田遺跡資料整理作業や盛岡市教育委員会の志波城跡(太田方八丁遺跡)・大館町遺跡・柿ノ木平遺跡等の発掘調査や整理作業に参加する。
1981年、大学卒業後、盛岡市教育委員会(非常勤職員)・宮古市教育委員会(1984年正職員)に勤務。特に宮古市では崎山貝塚の確認調査や国史跡指定業務等に従事した。この間文化課長・崎山貝塚縄文の森ミュージアム館長・北上山地民俗資料館長等を歴任。
退職後の2020年、奥州市に帰り教育委員会にて文化財専門員(会計年度任用職員)として埋蔵文化財業務等に対応。

2021年、岩手県立大学総合政策学部非常勤講師。

2024年、えさし郷土文化館長就任。

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